2016年03月15日

美味しいおにぎり

     
京都での学生生活が4月より始まる。
大福村では都会に行く人がすくない時代だったので、
出発の前日、
友達が代わる代わる我が家を訪ねてきた。

ここに書くのはおこがましいのだが、僕は、高校で生徒会長をしていた。
目に見えての実績は何もないが、
役員の協力で何とか大任をまっとうする事が出来たのである。

母も知っているようで、あんたは  何もしきらん(できない)けど
友達がおって良かったな、皆さんから協力してもらわなかったら
今頃あんたは泣きよるばい。

しかし、
人がやってやろうと思わせるのも才能ばい。    あんたは  あたい(わたし)
に  よーく似とるばい、あたいも何もしきらんけど、まわりの人が助けてくれて、
今までやってこられたばい。と大きな声で笑った。

出発の日は
バス停まで、00君や  00さんなど多勢の人が見送りにきてくれた。

僕が一人では食堂にはいれないので、母は大きなおにぎりを七個  新聞紙に包んでくれた。
すぐにバスの中で2個、列車で3個、取っておこうと思ったが残りのおにぎりも食べてしまった。
無くなって  急にお腹がすいてきたが、我慢して目を閉じた。
当時は急行の夜行列車のため寝台はなく、新聞紙を床にひいて寝たのである。

京都駅を出て、
地図を頼りに寮に着くと 先輩達がむかえてくれ、その中の一人が  
家元の帰り道、途中で会った  Uさんだ。

今まで一人では生活したことのない僕にとって  緊張の1日であった。
翌朝
市電に乗り学校へ行く。
僕は詰襟の学生服、母が買ってくれた黒の革靴を履いていった。
このような出で立ちは誰も居ないが  
恥ずかしくはない。

僕は1日ゆっくり寝たのでやる気がでてきた。

次回この続きをお話ししよう。









2015年12月30日

年の瀬の思い出

   あと二日で新年を迎えるが、
今年は特に色々なことが多い一年であったように思う。

ところで、
この時期にいつも思い出すことがある。

我が家は祖父の代からの花屋で、周りは田んぼの中の一軒家、
近所の人でも日頃は花で商いをしている家とは思われないくらいの
普通の田舎の家だ。

しかし、師走になるとたくさんの正月用の花材が入荷する。
お座敷には布団がひけるスペースだけをのこして、
菊や千両、鉄砲ユリなどを山盛りに寝かせ、木物の松や梅は外において茣蓙をかぶせるだけの簡易な保管所ができる。

 大福村の正月は、ほとんどの家庭で玄関と床の間にいけばなを飾る。
そのため、我が家は大忙しで、兄弟もそれぞれに仕事をしなければならない。
お手伝いに来てくれる高齢の、佐藤はるかのおばあちゃんは、
動きが機敏でテキパキと仕事をするので、何をしても僕達は負けてしまう。
おばしゃんはすごかなと言うと、
あんたどんも、すぐしきるごつ(できる)なるけ頑張りないと励まされる。

この時期、僕達は、母の寝ているところを見たことがない。

中学生になると、僕は父が植えた梅を切って、それをたばねる作業をするのだ。
杯数が多いため僕も徹夜をしなければ間に合わない。

母は 二、三日寝なくても死にやあせん、頑張る時に頑張らないかんばい。今せにゃ(しなければ)いつするか、
正月にいっぱい寝たらよかばいと言う。
僕もそう思った。 

家の中は花でいっぱいなので,
梅くくりは外での作業となる。不思議と雪は降るが雨が降ったことはない。
藁を敷いてその上に座る。結構、藁の香りがして、暖かく、居心地が良い。
夜中になると寒くなり、ズボンの上に霜が降りるがおかまいなしだ。

隣には可愛い犬「たろう」がいる。僕が歌ったり、話したりすると、
太郎も僕の方を向いて,
ワンと返事をするので、ぜんぜん寂しくない。

近くで梅を切った枝を燃やして、その中に我が家で秋に採れたサツマイモを入れておく。
この時の煙の香りは最高だ、

芋が焼けると、
ホーホー、フウーフウーと言いながら食べる。たまらなく美味しい。
 太郎にも少しやるとすぐに食べて、もう少しくれと、ワンワンとほえるので、また少しやる。僕達は仲良しだ。

数日経つと、僕達の手にはヒビが入りガサガサになるが別にどうもなかった。血が出た時、母ちゃん血がでたばいというと、舐っとけといって、そのあとガリガリ(赤い実  霜焼けにきくといわれている)をつけろという。結構これが効くので、不思議だ。
この時期、我が家の薬となる。

そして、
母があんたどん(君達)はよう頑張るな、さすが父ちゃんの子供たいと言って、
花が売れたら、
正月に、いっぱいお年玉やるけなというが、
今までもらったことはない。

結構売れていたと思うのだが。。


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母が、
梅は切れば切るほど、新しい芽が出て、元気になるとばい、
父ちゃんが喜びよんなるとよく言っていた。

事あるごとに、父ちゃんが生きとったらといつも言う。

嫌なのは、  
僕達が悪いことをすると、父ちゃんが居ったら、 
おごって(怒る)もらうとにと言われることだ。

2015年05月28日

母の漬物

     学生時代、休みが終わり京都に戻る前日は大変だ。
僕の友人はほとんどが農家で、長男が多い。
    それぞれが、 大規模農家をするとか、温室をいっぱいたて、ネギを作る、また、きゅうりで勝負するばいと、熱く語る。
出発の日は、友達がバス停まで送ってくれた。

京都に戻る時は夜行急行列車。
走り出すとすぐに母の作ってくれた大きなおにぎりを食べる。
おかずは何もないが美味しい
五個あったのがすぐになくなり、まだ食べたい。
僕は、パリパリした海苔より御飯にノリが染み込んだのが好きだ。


家を出る時
母が、自分のつけた高菜の漬け物を持っていけと言う。
僕はいや、いやばい、絶対いやというが

良かよか、喜びなるけ「よろこばれるから」、持っていけと言う言葉に、僕はいつもおしきられてしまう。
今のように、ビニールの袋がないので、新聞紙で包み、その上から、油紙お巻いただけだった。


当時ぼくは寝台列車ではなく、向かい合わせ席の列車だった。
心配したように車内は暖かく、プンプン匂いがしてくる。 それとなく 周りの人が僕のほうを見る。
僕はどうしようもなく、ただ、暗くなった外の景色を眺めていた。

京都の下宿に到着した夜、先輩がごはんをたいて、母の漬け物を切った、皆、美味しか、美味しいと言って、いつもよりごはんを多く食べていた。

たかしのお母さんは良い人やねと先輩が言う。

その後、朝倉に帰った時、母が漬け物を皆さんは喜ばれたな?と聞いたが、僕は、なんも無い、といった。
皆が喜んだとは一言も言わなかった。
言えば、また、もっていけと必ず言うとわかっていたからだ。
あの、列車のなかでの思いはしたく無いから。

そうはいっても家にいる時は、母の漬け物と、白い御飯があればなんばいでも食べれた。
高菜の茎の部分に。味の素、白ゴマ、醤油をかけると、最高だ